• 引退投稿〜四年伊藤俊之

     

    読者の皆さんこんにちは、伊藤俊之です。
    今回初めてこのようなブログというものを書くので、変な文章になっていたり、変なことを言っていたらどんどん突いてください。

    さて、このブログでは今までの僕の生き様やアイスホッケー人生について緩く書いていきたいと思います。

    僕は長野県長野市で4300g(某病院の最重量記録保持者)という体重で生まれました。そして天然パーマのクルクル頭でとにかくパンチのあるBABYでした。
    まず、この場をお借りしてお母さんに感謝です。ありがとうございました。
    そんなビッグBABYだったので、当然、幼稚園や小学校では身長も大きく、人より早くベビーカーも卒業したみたいです。
    僕は幼少期からとにかく運動することが好きで、休み時間になってはダッシュで外にいき、遊びました。そのおかげで勉強という2文字は僕の頭にはありませんでした。まぁ今も無いですが、、、
    まぁ幼少期の伝説話はここまでにして、ここからはアイスホッケーの話もしていきますね。
    小学校に入ると、父、母、兄、家族全員アイスホッケーをやっていた影響でアイスホッケーを始めました(長野イーグルス)。長野市では通念のスケートリンクがなく、冬場だけしかできなかったので、夏は野球をやり、水泳なんかもかじりましたが、結局は野球とアイスホッケーに夢中になっていました。

    昔の自分にもっとハンドリングの練習しろと言いたいです。今にすごい響いてます。

    ま、それは置いといて、
    自分で言うのもあれですが、野球は結構センスがあり、中学でも両方できたらな〜とか思っていたのですが、中学からは大好きなアイスホッケーに専念すると決め、長野市から約1時間半かかる軽井沢を本拠地とするクラブチーム(軽井沢グリフィンズ)に入りました。週3〜4でお父さんに送迎してもらうという生活でした。
    ご存じの方も多いかと思いますが、僕のお父さんはお坊さん(善光寺)のため、朝がすごい早く、練習で夜遅くに帰り、早朝から仕事にいくという過酷な生活でした。この場を借りて感謝します。ありがとうございました。
    長野県の小中学生のアイスホッケー人口は少なく、チームの人数も少ないので僕は試合になると出ずっぱりということもよくあり、楽しい反面キツかったな〜という印象です。
    全国大会にも長野県代表として出場したのですが、そのときに衝撃を受けたのが、北海道のレベルが高すぎることでした。試合をすると遊ばれ、こてんぱんにされ10点差以上で負けることがほとんどでした。
    この経験から僕は長野県では良い方かもしれないけど、上には上がいるということを知り、高校からは北海道の高校に進学して、上手くなりたいと思うようになりました。
    そして中3のときに北海道の何校かの練習に参加させて頂きました。当然どこもレベル高いなとは感じたのですが、札幌の北海高校の練習に参加したときに、池田涼希さん(現:横浜グリッツ)のプレーを観て衝撃をうけ、一緒にやってみたいと思い、北海高校に進学しました。
    北海高校に入り、まず慣れない寮生活や環境の変化でホームシックになり、最初は苦労しました。また中学生まではろくにトレーニングもしてこなかったので高校の陸トレや練習が辛すぎて何度もやめようと思いました。
    ありがたいことに一年生から試合に出ることができたのですが、自分の性格上すぐに遠慮してしまうところがありなかなか納得のいくプレーはできませんでした。2、3年になるにつれて自信もつき、持ち味を発揮できていたかなと思います。
    そして高校で1番忘れられない出来事といえば、3年生のときにインターハイに出れなかったことです。予選となる全道大会の初戦で白樺高校と当たり、PSの末に敗北。3年目にして初めてインターハイ出場を叶えることができず、本当に本当に悔しかったです。でも裏を返せば、優勝校相手にここまで戦えたことが自信にもなり、大学でも頑張ろうと思えました。
    高校での生活は本当に充実していて、まさに青春そのものでした。そこで出会った人たちは一生仲良くしていきたいですね。
    大学は法政大学に進学し、今まで入れ替わりだった兄(フランスでプレー)とも初めて同じチームでプレーをしました。
    最初は周りの人みんなが強豪校出身者ばかりで自分のレベルの低さを痛感しました。高校と同じで遠慮してしまったりで、うまくいきませんでした。でも試合にはなんとか出ることができ、よく石田和哉さんと同じセットでプレーをしました。たくさん足を引っ張りましたが、かずやさんと一緒にプレーしたことですごい自信がつき、今に繋がっているかなと思います。感謝ですね。ご飯の誘いまってます、ごちそうさまです(笑)
    2年のときには人生で初めてインカレ(全国大会)の決勝という舞台でプレーすることができました。自分自身、肩を怪我していて力を出しきれませんでしたが、準優勝という経験は初めてのことでとても嬉しかったです。
    3年目4年目はコロナの影響で色々と大変でした。
    4年目では主将をやらせてもらいましたが、正直、主将らしいことはできていたかわかりません。チームも春は勢いを感じたのですが、秋リーグでは4強に勝つことができず、何もかも上手くいかずにたくさんたくさん悩みました。
    本当にチームをまとめるって大変なことだなと感じました。
    最後のインカレは下級生が驚くほど4年生は気合いが入ってました(笑)
    4年生どうしたんですか?って聞かれました(笑)
    やっぱり短期決戦に強い法政大学ですね、、
    秋に勝てなかった相手にも勝つことができて3位という結果に終わりました。優勝には届きませんでしたが、今年で1番チームが1つになって戦えたので後悔はないですし、後輩たちに何か残せたのかなと思います。
    本当に大変な1年でしたが、同期が支えてくれたり、先輩もアドバイスをくれたり、後輩もついてきてくれたおかげで充実した大学ホッケーを終えることができました。
    ありがとうございました!!

    私事ですが、これからもアイスホッケーを続けます。
    H.C栃木日光アイスバックスに入団しました。インカレを終え、1月3日より正式に入団し、アウェイですがデビュー戦を終えました。
    当たり前ですが、プロとのレベルの差を毎日感じております。(笑)
    学生とは違って、何年もプレーできる保証もなく、そういったプレッシャーもある中ですが、結果を出して頑張っていきたいと思います。
    またアイスホッケーを通してこれからも親や関わってくれた人、応援してくれる人たちに恩返しをできるように、頑張っていきたいと思います。
    皆さん、応援よろしくお願いします!

    最後まで読んでくれた皆さん、長々とお付き合いいただきありがとうございました。

    引退投稿〜4年生金子凌大

    こんにちは。法政大学スケート部前副主将#18の金子凌大です。

    森健城さんに書いて欲しいと頼まれ、このように文章を書いたことがなかったので上手く言葉にできているか分かりませんが、温かい目でご覧頂けると幸いです。

    インカレを終え引退した身ではありますが、また3月から合宿所に集合し部活が始まるのでは?というように正直引退したという実感があまりないという状況で書いていこうと思います。

    それでは本題に移り、今回は自分のホッケー人生を振り返ったり、後輩へのメッセージなど自由に書いていいと言われたので自由に書いていこうと思います。

    私が仙台という地でアイスホッケーを始めたきっかけとしては、小学1年生の時に学校の行事でスケート教室があり、1年生には6年生の先輩が付いてくれるというシステムで、私に付いてくれたのがあもちゃん(吉田有美加さん:元SEIBUプリンセスラビッツGK)でした。そして、アイスホッケーの体験をしてみないかと誘いを受け勝山Jrの体験に行ってみたところアイスホッケーという競技にどハマりしてしまいました。今思うとアイスホッケーがマイナーな地で始めたというのは奇跡に近いと思います。

    小学生ということもあり進路などは全く意識していませんでしたが、東日本大震災の影響もあり6年生の時に盛岡に移り住み、チームは八戸の北Jrに所属しました。朝練の時は朝3時頃に出発し車の後部座席に布団を敷きそこに寝ながら八戸のリンクに向かうという生活を送っていました。毎回送迎をしてくれた親に本当に感謝しかないです。

    八戸のチームに所属していたということもあり、中学校は八戸市立第二中学校に進学しました。二中での思い出で一番印象に残っていることはやっぱり三年の時の日光で行われた全国大会です。準々決勝では、法政で同期のゆう(糸崎勇)や後輩の永吉(安藤永吉)、駒澤で同期だったやじ(中央大学#7矢島翔吾)がいる合同Cと当たったのですが、合同Cは全道優勝しているチームだったのにも関わらず勝てる雰囲気になっていたのが今でも印象に残っています。試合では二中が勝利したのですが、この試合を今でも自分に言ってくるのがゆうで、試合に勝ってディズニーに行く予定だったのが負けて行く羽目になったと根に持っているようです(笑)。大会自体は準決勝で鳥取中に負け、三決で三沢に勝ち三位という結果で終わりました。その時に笑って終われるのは優勝と三位のチームだけだと言われ、インカレの三決前にも思い出したくらい印象的でした。

    高校選びには凄く迷いましたが、大久保さん(現東北フリーブレイズ監督)に駒澤に挑戦してみないかと言われ、自分自身インカレ優勝最多のチームでプレーしてみたいという気持ちから駒澤大学附属苫小牧高等学校に進学を決めました。進学したのは良いものの、朝は7キロ半の山道を走りその後ウエイト、それから学校に行き午後から自転車でリンクに向かい氷上練習、そして学校に戻ってき陸トレ・ウエイトの毎日。。。本当に辛すぎて何回やめたいと思ったことか(笑)。辛い中で自分を支えてくれたのが石橋さん(石橋拓実:ダイナックス)です。見た目はゴツいので怖そうなのですが、中身はチワワみたいな本当に優しい先輩で、石橋さんなしでは死んでいたと思います。自分は、二年目から試合に出場させて頂き、3年目はインハイ準優勝だったものの二年目に優勝という良い経験をさせてもらいました。駒澤での経験が今の自分を作っていると言っても過言ではないほど濃かったです。

    大学は法政大学に進学を決めましたが、法政大学を選んで本当によかったと思います。入学が決まり、入寮する時に部屋割りを聞かされ、松井さんと二人部屋と聞いて唖然としました。あんな怖そうな人と二人部屋!?やっていけるのかという気持ちでいっぱいでしたが、いざ同じ部屋になると優しい優しい。甘いもの大好きな甘党。好きなアニメはクレヨンしんちゃん。寝る時はジブリの睡眠用BGMをかけるなど見た目とは真逆で可愛いところいっぱいなんです。こんなこと書いたらやられるかもしれないですけど(笑)。ご飯や遊びに連れて行ってもらったりと良くしてもらいました。

    一年生の時に一番思い出に残っているのが石田さんに江ノ島に連れて行ってもらったことです。今思うと一年生の自分を誘ってくれるって本当優しいなと思います。アランとけんしょうも一緒に江ノ島に行きそこから仲良くなり今ではマブですね。二年目からアランと部屋になり一緒にいることが多くなり本当に兄弟みたいな感じでした。アランとは同じセットでプレーすることが多かったので、一緒にNHLのプレーを見ながらもっとこうした方が良いかななど毎晩遅くまで話し合って、それが終わるとゲームが始まって朝練の出発の時間まで行い、オールで練習に行くという毎日でした。あの頃は寝る時間も惜しんでやりたいこと行ってましたね(笑)。そして自分たちの部屋に常に居たのがけんしょうです。帰れって言っても居座り終いにはソファーで寝てるという。本当に厄介でした(笑)。でも、三人は趣味などが似ているので常に語ってました。あの時間が楽しすぎました。定期的に会うくらい仲良いですよ。

    仲良いといえばけいたさんもでした。危ない危ない。書かないと文句言われそうなので書かせてもらいますね。けいたさんには本当に本当に良くしてもらいました(嘘ではありません)。甘いものを食べに行ったり、新大久保に韓国料理を食べに行ったり、ディズニーランドに行ったりと結構一緒に出かけることが多かったです。ディズニーに行くっていうのも前日にノリで決まって部車でディズニーの音楽ガンガンで向かうっていうのが楽しすぎましたね。

    私は先輩に仲良い人が多かったので卒業した後、自分が四年生に上がる時は心にぽっかり穴が空いた感覚で凄く寂しく、自分に四年生が務まるのかと不安な気持ちでいっぱいでした。そこで自分の支えになってくれたのが栗原くんですね。こうせいとはなんだかんだ四年間一緒にいました。こうせいはホッケーIQが高いので、プレーに関してアドバイスをもらったり、寮のベランダで二人で焼肉をしたり、学部も一緒だったので常に一緒でした。ほとんど彼女のような存在でしたね(笑)

    そんなこうせいと離れると考えると寂しい気持ちではありますが、就職先の勤務地が東京になれば、気軽に遊んだり、Sリーグで敵としてホッケーをしたりできるので東京勤務になることを祈ります(笑)。

    4年間を振り返って思ったのは、法政は本当に良いチームだと思います。アイスホッケーを行ってきて、ここまで色々な価値観や感性を持ったチームを見たことはなかったので視野が広がったと思いますし、ホッケー上手い人が偉いみたいなアイスホッケー部っぽさもないので、凄く楽しくプレーでき、結果も残せるチームは法政くらいだと思います。私はおすすめしますね(笑)

    最後に、親には感謝しかないです。ここまで自分をサポートしてくれてありがこうございました。インカレでは、珍しくポイントを重ねることができたので現地で一緒に喜びたかったです(笑)。これからも迷惑をかけることがあると思いますが、よろしくお願いします。

    そして、監督やコーチ、スタッフの皆さん、短い間でしたがありがとうございました。

    4年間応援してくださった方々、ありがとうございました。引き続き法政大学の応援の方よろしくお願いします。

    最後まで読んで頂きありがこうございました。

    #18 金子凌大

  • 引退投稿〜4年栗原皐成

    春から会人になるので自身の人生を振り返ってみると失敗、成功、挑戦様々なことを通し、とても充実した日々を過していたのだと強く実感しました。

    今回は私とアイスホッケーについて少しお話させていただこうと思います。 初めてのブログのため読みらい部分が多々あると思いますがご了承くさい。

    私は幼少の頃友達とサッカーに明け暮れ、いずれはサッカー部に入りたいと思っていましたしかし、私の思いを一瞬で変えてしまったのがアイスホッケーとの出会いです。 

    アイスホッケーとの出会いは小学3年生の冬でした。たまたま家族でスケートに行った際、アイスホッケー少年団部員募集のチラシを見つけ、「体験だけでもいいから」と無理やりに連れて行かれたことがきっかけでしたスポーツのどこが面白いのかわからないそう思っていたのてすが、実際に体験してみると氷上でしいぶつかり合いをするアイスホッケーに一瞬で魅了されてしまいました。始めた時期が遅いこともあり、周りに追いつくため毎日のようにスケーティングや家でハンドリング練習をしました。

    中学校で部活としてアイスホッケー続け中学校に進むこと決めました。電車通学困難なことから同じ中学校に通う予定であった友達の下宿させてもらうことになりました。アイスホッケーを続けられる環境を作っていただき現在までアイスホッケーを続けられたので感謝の気持ちでいっぱいです。れが私にとっての人生の分岐点でしたこの経験が私を人間的にも、アイスホッケー選手としても大きく成長させてくれました。中学校に入学すると自分より一つも二つもレベルが高く、練習についていくので精一杯でした。中学校では周りの同級生が試合に出ている中、自分は試合になかなか出ることができずそこで初めての挫折を経験しました。間試合に全く試合に出られないことが初めての経験だったのでとても辛かった記憶があります。しかし、試合に出ることのできない1の間にDF コーチである河津さんという方に熱心にご指導していただいたおかげで、年目にはチームの看板セットであるプレーさせてもらうことができ、選手として多くの経験を積むことで大きく成長することができました。私にとってはこのDFコーチである河津さんという方と出会えたことがとても大きく、私のアイスホッケーの基礎になっています。そして、2年生の全国大会ではという結果を残すことができました。3 年目は自分を含めた 3 人しかDFがおらず、毎試合、足がつるのが当たり前のような環境でやっていました。当時はとても辛かったですが今思うと好きなアイスホッケーを思う存分できて幸せだったなと思います。私生活では中学で親元を離れたので良くも悪くも様々な経験をすることができました。そのため、中学時代が現在の私のアイスホッケーの基礎、人間形成に関わった大切な時期でした。

    高校は地元の光明峰高等学校に進みました。高校は実家から通うことになり、毎朝5時起きで始発の電車に乗り、夜の氷上練習が終わって親に迎にきてもらい、家に帰ってくるのが23という忙しい生活が始まりました。しかし、日光明峰高等学校は県立の学校であるにも関わらず丸々一つの体育館がウエイトルームスケート場に控え室があること、陸上トレーニングするにも多すぎるほどの坂道があるなど環境がとても整っていました。そのため、忙しく大変な日々゙したが高校選びに間違いはなかったと思っています。同期 12 人、先輩にも恵まれ、高校2 年生の時には地元日光でのインターハイ全校応援という中でプレーをすること国体で位という成績を残すこともでき、とても充実した高校生活を送ることができました。

    大学では幸運にも歴史と伝統のある法政大学に入学することができました。入学当初、周りには強豪校出身者ばかりでレベルの高さに驚かされました最初のは運良く試合に出ることができましたが私の悪い癖である手を抜いてしまうということもあり、練習を適当にしてしまったりすることから徐々に試合に出ることが難しくなったりする時期もありましたが周りに助けてもらったおかげで 1 年目のインカレの時には試合に出してもらうことができました。しかし、2 年目には自分自身のホッケーに対する気持ちの面で上がらず適当にプレーしてしまい、周りに迷惑をかけてしまいました。年目はコロナ禍で数少ない試合数の中、自身の就活などで試合に出場できずにチームファーストで動けずにチームに迷惑をかけていたのかなと思います。以上のことから大学のアイスホッケーを振り返ると 4 年間を通してチームに貢献できずに逆に迷惑かけてばかりいたと反省し、とても申し訳ない気持ちでいっぱいですしかしながら、4年間、先輩、後輩に恵まれ、騒がしい寮生活、日々の氷上練習と人生で一番と言っていいほど楽しい時間を過ごすことができ、感謝の気持ちでいっぱいです。

    13年間やってきたアイスホッケー離れ、社会人なりますが、これからも周りへの感謝の気持ちを忘れず、又、アイスホッケー通して学んだことを活かし、人生を楽しんでいきたいと思います。